Missing for
50 years – US nuclear bomb
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Gerry Northam, Page last updated at 11:14 GMT, Monday, 22 June 2009 12:14 UK
米国海域に3500kg(7600lb)の核爆弾を落下させた、軍用機空中衝突から50年以上を経た今、行方がわからなくなった核兵器の脅威が未だにあるのではないかという疑問が残る。
退役したハワード・リチャードソン大佐(87歳)は、米国空軍の航空技術の歴史の中では驚異的位置づけを成す一人として、英雄であると自負する。
彼の見解はとても影響力があり、彼の妙技を称え空軍殊勲十字章を与えた空軍をはじめ、彼をサポートする人は多い。
しかし、他の者にとって彼は悪者同然である。彼は50年前に米国海域に核爆弾を落とした男であり、未だに誰も落とされた爆弾を発見できず、また安全性も確立出来ないのである。
“最高機密の飛行”
1958年午前0時頃、ハワード・リチャードソンは米国戦略空軍司令部による最高機密の飛行訓練を行った。
冷戦の最中、フロリダのホームステッド空軍基地から、米国がロシアで目星を付けたどの箇所への飛行指示に対しても任務が行えるようにするため、若いリチャードソン少佐の役目はB47爆撃機での長距離飛行の訓練をする事であった。
訓練は極力実践に近い形で行われたため、巨大なH爆弾が一弾搭載された。H爆弾とは、世界第三次大戦を開戦するために、ある日彼が投下を命令されるであろう核爆弾なのである。
ジョージアとカロライナ北部の上空38,000フィートを巡行していた時、彼の飛行機は他の軍用機と接触し、主翼に大きな穴が開きエンジンの一つが取りつけ位置から外れそうになり、危険な角度でぶら下がった。
ミシシッピの自宅でインタビューに答えたリチャードソン大佐は、「一瞬の事で、右側の炎の大きな衝撃と爆風を感じた。 我々は何が起きたのかわからなかった。宇宙からきた何かかとも思ったが、他の飛行機であったとしか考えられない。」
大佐はもうダメだと思った。彼の爆撃機は地上に向けて急降下し、操縦室からの応対は何も受けられなかった。
「我々は脱出シートを持っていたが、メンバーには “まだ脱出シートを使うなよ、飛行できるかどうか試すから”と言った。」
上空20,000フィートまで降下した所で、彼はどうにか破損した機体を操縦し横ばいにさせた。
そこで彼と副操縦士は、自身と地上にいる無数の人々の命を守るための運命の決断をしたのだった。
リチャードソン大佐は、決断は瞬時に行ったが、今でも行われてしかるべきだったと確信している、と語った。
彼らは緊急着陸を行うに当たり機体を軽くするため、また、近場の道路に不安定な着陸を行った際に起こす危険のある巨大な爆発を避けるために、核弾頭を不時着水させたのだ。
「戦略空軍のための戦術的な教えに基づき、自分には搭乗メンバーの安全確保のためにあれ(爆弾)を処分する権限があった。安全を守る事が第一に優先される事だった」。リチャードソン大佐はこう述べた。
彼はB47機をサバンナの海岸線から1-2マイル程離れた位置に移動させ、投下扉を開いた。タイビー島近くの浅瀬や星砂の中に爆弾を落とした。
それから彼は着陸を完璧に成功させ、自身とメンバーは無傷のまま徒歩で避難をした。
F86戦闘機の操縦士も脱出シートにより生き延びた。
衝突の直後から不発核爆弾の捜査が設置され、米国内で2番目に大きな東部の港町の、また最も美しい街の一つでもあるその場所に近すぎる、どこかに埋まった爆弾の捜査が始められた。
その他、公式、非公式の相方を含む多くの捜査隊も続いたが、いずれも発見をすることは出来なかった。
核爆弾は、頻繁にエビ漁師が浚渫機を使用する海域の海底に潜み、甲殻類よりも大きく恐ろしいそれがかかった時、誰であってもその感覚を瞬時に知ることが出来るであろう。
時が経過した今、議論を加熱させるものは爆弾の危険性がどれほどであるか、という事である。
米国空軍はとりあえずそのまま放置することが一番安全であると主張し、リチャードソン大佐は、プルトニウムに不可欠な引き金が無いので核爆発は起こらない、と断固な姿勢だ。
“訓練任務”
彼は、訓練飛行に使用された爆弾の定期的投下である、と言う。
「これはただの訓練任務だった。我々は継続的に問題解決を行っており、訓練を行う目的もそこにある。完璧になりたいのだから。」
しかし、米国の東部沿岸地区の殆どの域を消滅させる事ができる程の熱核爆発の終末論的恐怖を呼び掛けた反対派によって、彼の事象についての議論は積極的に行われてきた。
不安は多様な形で現れ、テロリスト集団によって爆弾が移動・復元されるかもしれないという者、さらにはもう既に行われているだろうと言う者もいる。
リチャードソン大佐にとって、自身の人生を形成したこの出来事が、彼の考えとは違う形で終わっていると考える。
「すでに51年もこの事と一緒に生きてきた。事故が起き私は機体を安全に着陸させた。。。その事で私は将軍より空軍殊勲十字章を受け取ったのだ。私はその事が語り継がれると思った。核兵器の事ばかりを語り継ぐのではなく。」
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